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宇宙で使えるライオンの「すすぎが簡単なハミガキ」–宇宙初の“泡立たない泡”になった背景と開発の苦難
宇宙開発においては、画期的な研究や新たな発見、それにつながる探査機などの最先端技術が注目されがちだ。しかし、そうした発見やテクノロジーを支える宇宙飛行士たちの「宇宙での暮らし」に関わるところは、あまりピンと来ないところも多い。
そんな中、宇宙航空研究開発機構(JAXA)は2020年、宇宙生活での課題や困りごとを「Space Life Story Book」としてまとめ、それらを解決する生活用品のアイデアを募集した。結果、9件のアイデアが選定され、現在国際宇宙ステーション(ISS)に生活用品として搭載されている。
その1つがライオンの「すすぎが簡単なハミガキ」だ。普段、地球にいる我々は毎日何気なく歯を磨いているが、国際宇宙ステーションなどの微小重力の閉鎖環境で過ごす宇宙飛行士は歯みがきに大きな困りごとを抱えていたという。
そこで長年にわたってオーラルケアを研究し、製品開発してきたライオンが、宇宙飛行士に最適な歯みがき用品を提案した。一体どんなハミガキで、開発にはどんな苦労があったのか、担当者に話を伺った。
吐き出しやすく、口残りが少ない「泡立たない泡」
──宇宙領域の製品作りにチャレンジした背景について教えてください。
当社では、「より良い習慣づくりで、人々の毎日に貢献する」という存在意義、パーパスをもち、「健康に直結する生活習慣を定着することが価値創造の原点である」と考えています。特に近年は、口腔内の状態が全身健康と深く関係していることがわかってきました。生活習慣の1つである歯みがき、オーラルケアは、QoLの向上やウエルビーイングにも寄与しますし、食べる、話す、笑うといった普段の生活やコミュニケーションにも大切ということで、重要性がますます高まっているものと認識しています。
そういうこともあり、2021年からは「インクルーシブ・オーラルケア」という事業アクションを開始しました。「いつでもどこでも誰でも適切なオーラルケアを実現できる社会のために」をコンセプトに、歯みがきの習慣づくりだけでなく、SDGsの観点からも、オーラルケアを通じて社会や環境課題に取り組んでいくという活動です。
翻って宇宙の生活は、水もその他のリソースも制限される、究極の極限環境です。この環境を考えることが、地上のさまざまな生活課題を考えることにもつながると思っています。たとえば軌道上にある宇宙ステーションは微小重力環境にあり、筋力が衰えやすい。これは地上では運動不足や加齢と関連付けられますし、リソースが制限されることについては、水や物資が限られる災害時環境、もしくは水不足が深刻な地域の状況に近いものがあります。
さらにそれらの延長で、嚥下機能が低下した高齢者に対してより簡単な歯みがき方法を提案できないか、といった発想にもつながります。2020年にJAXAさんが公表した「Space Life Story Book」では、宇宙の課題だけでなく地上の課題も解決するものであること、というところがポイントとなっており、毎日使う日用品のメーカーだからこそのアプローチで何かできないか、という視点から、宇宙における歯みがきを快適な習慣にアップデートする、というテーマで検討を始めました。
──JAXAに提案して選定された「すすぎが簡単なハミガキ」は、具体的にどういったものなのでしょうか。
宇宙は水が大変貴重ですので、お風呂やシャワーはありませんし、洗髪や洗顔、歯磨きは超節水型で行う必要があります。歯磨きについては、歯を磨いた後、口腔内に残っているハミガキなどをペーパータオルのようなものに吐き出すか、もしくは飲み込むのが基本で、飲み込むことへの抵抗感、吐き出した後の口残り感が課題になっていました。それらをクリアしたいと考えて提案したのが「すすぎが簡単なハミガキ」です。
これは泡のハミガキで、ボトルをプッシュして歯ブラシの上に泡を出し、それでいつも通り歯を磨いて、そのままペーパータオルに吐き出すだけでも使用できます。歯みがき後に簡単に吐き出せること、口残り感を抑えることで不快になりにくいことが、ここでは重要になってきます。
そこで鍵となるのが泡の性質です。一般的には歯みがきをしながらハミガキを口のなかで広げていくことになりますが、泡になっているとより全体に広がりやすい。ただし、歯みがきしている間にさらに泡立ってしまうと口の中に残りやすく反対に吐き出しにくくなってしまいます。そのため、あえてさらなる泡立ちは抑える設計にしています。
また、地上と同じようにコップの水を使ってすすぐような行為ができないので、口の中に後残りしにくい香味になるようにしています。その他にも口残りの不快感につながるものは、できるだけ使わないような配慮をしました。
1本あたりの容量は100ミリリットルで、使用回数は約500回。1日3回使用するとしても約5.5カ月間使える計算で、一般的な当社ハミガキの3倍ほど長持ちします。国際宇宙ステーションでの滞在は概ね半年間ですので、これ1本でまかなえることになります。今後のアルテミス計画も考えると物資はかなり制限されますし、宇宙に物を持って行くときにはコストもかかりますので、そこでも「すすぎが簡単なハミガキ」が貢献できるのではないかと考えています。
──よくある液体状やペースト状ではなく泡状にした理由は。
吐き出しやすいという点で泡状であることが大きな利点だと思っています。これは体験いただくと分かると思うのですが、最初の状態が泡ではないハミガキだと、普通に歯みがきをして、そのまま吐き出すだけでは口の中に泡が残ってしまいます。これが吐き出しにくさと、口残りの不快感になります。しかし反対に最初から泡にしておくことで、口の中にすぐ広がりますし、さらにそれ以上泡立たせないから吐き出しやすい、というものになります。
──含まれている成分はどういったものなのでしょうか。
国際宇宙ステーション(ISS)では、有機溶剤、つまりアルコール等が使えないという制約があります。一方、地上で販売されている一般的なハミガキには、これらの有機溶剤を含むことが大半です。「すすぎが簡単なハミガキ」では、ISSにおける制約をクリアする為、有機溶剤を含まない形で開発しました。
──JAXAの公募の条件にあった地上への展開については、どんなことが考えられますか。
あらゆる水不足環境の場所、そういったところで低発泡、低残存、低香味を特長とする「すすぎが簡単なハミガキ」が貢献できるのではないかと思っています。たとえば災害時に備えて常備してほしいですし、水不足の国・地域の方にも使ってほしい。そういった水を使えないところでのオーラルケアの商品開発をさらに進めていくきっかけにもなると考えています。最終的には宇宙を含めた形での「いつでもどこでも誰でもオーラルケアできる社会」が我々の目指すべきゴールです。
地上で逆さまにしても大丈夫なら、宇宙でも大丈夫
──開発で苦労したことを教えて下さい。
無重力環境で実験できなかったことですね。低重力の実験設備を利用できるといったこともなく、宇宙空間における泡の実験も過去にほとんど行われたことがないので、宇宙で泡が容器からちゃんと出るのかわからない。そんなところからプロジェクトがスタートしたので、容器から出た泡が地上と同じような形になるのかも不安でしたし、泡の生成メカニズムなどをもとに理論的に検証していくしかありませんでした。実際に宇宙に持って行って試行錯誤できませんから、実証できない状況で作るのはかなり難しかったところではあります。
1つ、どれだけ理論的に検証していってもわからなかったのが、泡が歯ブラシにくっつくかどうかでした。どこかに飛んで行ったりしないかが心配だったのですが、ありがたいことに、これを宇宙に持って行っていただける宇宙飛行士の若田光一さんとテレビ会議させていただくことができ、そこで聞いたところ、「宇宙で使えるかどうかは、ひっくり返して使えるかどうかでわかる」と言われたんです。歯ブラシに泡を出して、そのまま歯ブラシを下に向けたときにもくっついたまま、つまり重力に反した状態でもくっついているなら宇宙でも使えると。
また、宇宙では味が薄く感じられるという話も聞いていたので、香や香りについても事前に若田さんにいくつか候補を提出して、地上で使っていただいたうえで1つ選んでいただきました。香味はつけていますが、濃すぎるとどうしても口残りが気になってしまいますから、そうならないように抑えています。
オーラルケア製品の場合、最終的に地上で製品化するには薬機法をクリアする必要があり、そのためにあらゆる検証も行っています。すでに泡ハミガキを作っていたので、今回はその技術を応用することもできました。しかし、それが宇宙でどう出て、どう使えるのかが根本的にわからなかった。理論武装して「宇宙で使えるものである」ことを証明するのは困難な作業でしたが、最後は「これで大丈夫だ」という確信をもってJAXAさんに提案することができましたし、そうやって悩みながらの開発も楽しかったですね。
―海外の宇宙飛行士のことも考えて開発されたのでしょうか。
海外の宇宙飛行士の方に使っていただくとなると、趣味嗜好が限定されそうなので未知のところはありますが、いずれは「これが日本ブランドの宇宙用ハミガキなんだ」という形で紹介してもらえればうれしいですね。日本人と海外の人とでは味の好みはかなり変わるのですが、たとえば日本と中国で全く同じ香味のハミガキも当社では販売していて、人気だったりもします。そう考えると、多くの国の人に共通で好まれる香味を作ることもできるでしょうし、あるいは機能としてのベースがあって、それを元に香味だけバリエーションを作る、ということもできるのではないかと思います。
―「すすぎが簡単なハミガキ」の開発プロジェクトにはどういった方々が携わったのでしょう。
リーダーの私は、最初は界面化学、泡に関する研究に携わり、その後現在のファブリックケア研究所に異動し、衣類用洗剤であるトップスーパーNANOXの開発を長年やってきました。最近は既存分野にとらわれない新規開発に取り組んでいます。
「すすぎが簡単なハミガキ」の開発主担当はオーラルケア研究所のスタッフで、他にはグローバル開発センターでアジア向けの洗剤を作っている人、香料科学研究所で香料を作っている人、さらに今回容器も重要なポイントでしたので、容器・包装技術研究所の人、宣伝やプロモーションなどを担当する人と、さまざまな部門から集まった人たちでチームを組んで開発しました。
ライオンでは「NOIL(ノイル)」という社内公募型の新規事業開発の取り組みもありますが、今回はそれとは別で、各々の興味関心をもとに、ほとんど研究所のメンバーでかつ部門横断的にプロジェクト化したもので、これまで当社ではあまりなかった取り組みでもあります。言ってみれば歯みがきを泡にする、というだけではありますが、これだけの人たちが力を合わせないと、宇宙に物を届けることができないというハードルの高さを実感するところもありました。
長期滞在する宇宙飛行士向けに、将来的にはプラスアルファの機能をもつ歯みがきも
―多くの部門の人が協力して作り上げたということですが、メンバーのみなさんが「すすぎが簡単なハミガキ」での経験を今後自分の部署の研究開発に役立てていく、というようなことはありそうですか。
ハミガキそれ自体の技術というより、「宇宙での生活はこういうものである」と知ることは、地上の製品を考えるうえでもすごく大切なことなんだ、とみんなが気付けたのが大きいと思います。私は洗濯用洗剤の開発をしていますが、水が使えない場所での洗濯はどうすればいいのか、というように思考を広げる意味ではすごく役に立ちましたし、SDGsの観点でも、そういう世界を作っていかなければならないんだろうなと思います。そういう宇宙開発の視点、宇宙生活の視点が普段の製品開発に役立っているという話は、他のメンバーからもいろいろ聞いています。
―ところで、同じようにJAXAに応募して選定された、同業の花王の取り組みはどう見ていますか。また、今後ビジネス面で2社で連携していくこともあり得るのでしょうか。
花王さんのアイデアは、課題に対して真摯に向き合って技術的なところからアプローチされていて、しかも製品を2つも作られて宇宙に持って行っているので、本当にさすがだなの一言に尽きますね。今後のビジネスでの連携も、個人的にはできたらいいなと思います。実際、使用済みつめかえパックを店頭で回収するリサイクル実証実験は花王さんと共にすでに取り組んでいたりもします。未来の日本のため、地球のために一緒に何かできると面白いですよね。
―「すすぎが簡単なハミガキ」を今後進化させていくとすれば、どのようにしたいと考えていますか。また、地上への展開で具体的に考えているところがありましたら。
今後の宇宙開発においては、さらに長期に渡って無重力空間に滞在することもありえます。今後進化させていくポイントはいろいろありますが、「吐き出しやすさ=口の残りの違和感のなさ」は更に追求したいと考えています。まずは今回の「すすぎが簡単なハミガキ」をお使いいただくことで、宇宙での歯みがきを、少しでも快適に感じていただければ、こんなにうれしいことは無いですね。
地上での製品化については、もし実現できるのであれば、もう少し地上向けにチューニングしたいとは思っています。どういう人に届けるものなのかというターゲットの見直しや、製品価値としてこのままでいいのか、プラスアルファを加えた方がいいのかなど、しっかり考えた上でお客様に喜んでもらえる物をご提供したいですね。
―これから宇宙で使われることになる「すすぎが簡単なハミガキ」ついて、どんなことを期待していますか。
やはり、宇宙での生活の利便性向上に「すすぎが簡単なハミガキ」がどれだけ貢献できるか、ということに尽きます。開発の過程においては、宇宙飛行士の方は非常にプロ意識が高く、自分を律して生活しているんだな、ということを改めて知りましたし、せっかく人類の未来のために頑張っていただいているのに、不便な生活を強いられているのは心苦しくもあり、少しでも楽に地上と同じような感覚で生活を送っていただきたい、という思いもありますので。まずは使っていただいて、不便さをどこまで解消できたのか伺いたいですし、きっと解消できていると信じています。
あとは研究者として楽しみにしていることも2つあります。1つは、少なくとも1年前時点では、ポンプタイプの容器がまだ宇宙では使われたことがないようで、宇宙でちゃんと中身が出るかどうか。また、液体が泡で出るのも宇宙では初めてで、以前宇宙飛行士の山崎直子さんがシャボン玉を飛ばしたことはありましたが、微小重力下で歯みがきの泡の粒も本当に球になるのか、いずれも問題ないとしてISSに搭載していただいてますが、そういったことを想像するだけでワクワクしますね。