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JAXAで活躍する「文系職員」–宇宙ビジネスと20年間向かい合ってきた上村俊作氏の原点

2022.11.18 09:00

藤井 涼(編集部)日沼諭史

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 宇宙旅行する民間人の数が劇的に増え、ますます身近に感じられるようになってきた宇宙。しかし、それでもまだ「自分とはかけ離れた世界の出来事」と捉えている人は少なくないはず。

 では、いままさに宇宙に携わっている人たちは、どのようなきっかけで宇宙と関わりをもち、なぜそれを生業とするようになったのか。本連載では、宇宙のさまざまな領域で活躍する「宇宙人(ビト)」の原点を探っていく。

宇宙航空研究開発機構 新事業促進部 事業開発グループ長の上村俊作氏

 今回は、JAXA(宇宙航空研究開発機構)新事業促進部の上村俊作氏。民間企業との共創で、新しい宇宙関連ビジネスの創出を目指す研究開発プログラム「JAXAイノベーションパートナーシップ(J-SPARC)」を率いるとともに、日本の宇宙開発利用における転換点となるような施策の数々にも携わるなど、影ながら宇宙産業の振興・利用拡大に尽力してきた人物だ。

「文系」でも宇宙領域で活躍できると思った

――まず、宇宙との接点を持つことになったきっかけを教えてください。

 こんなことを言うと怒られそうですが、実は子どもの頃、宇宙にあまり興味がありませんでした(笑)。生まれ育ちこそ鹿児島なのですが、種子島にも行ったこともなく、なにかロケットが打ち上がっているなと思うくらいで。(宇宙との)最初の接点は確か中学生の時かなと。当時、親戚からもらった宇宙のムック本で、日本人で初めて宇宙飛行された元TBS・秋山豊寛さんや旧ソ連の宇宙ステーション「ミール」での生活のことを知ったり、中学2年の理科資料集(副読本)表紙がH-Iロケットだった記憶ぐらいしかないです。

 宇宙という分野で自分も何かできるかも、と考えるようになったのは福岡で大学生をしていた就活中のことです。就活では、様々な業界、企業の人と話をする機会があり、いろいろな知識や業界・企業ごとに異なる価値観に触れられたので、今となっては貴重な経験になっています。結局、面接や人と会うのが楽しくなって、50社くらい受けました。情報・俗説が氾濫する世の中で、どれが正しいのか自分の目と耳で確かめないといけないと思って、学生時代は、調査やヒアリングでとにかく現場に足を運びました。卒業旅行で、欧州を20数ヶ国、バックパッカーしていたのも懐かしいです。

鹿児島、福岡で過ごした上村氏(左から小学6年、中学3年、大学4年当時の写真)

 大学は経済学部、文系でしたので、だいたいの人は商社や金融、地元の電力・通信会社、自治体、マスコミなどに就職します。僕自身もご縁あって内定いただいた5社ぐらいから絞り決めようとしていた就活終盤に、突然、説明会に参加した以来一切音沙汰のなかった、JAXAの前身である宇宙開発事業団(NASDA)から連絡をいただき、当時、東京見物もしたいという不純な動機もあって(笑)、その後、筆記試験と面接を受け、内定をもらいました。

 先に内定をいただいていた広告会社や航空会社などに進むか正直迷いましたが、元々、国家公務員I種試験を受験しようとしていたこと(ただし企業選考日と重なり受験できず)、父親が小学教諭で、僕も教員免許は取得していたので、青少年教育にも関与でき、一般企業よりももっと公共性のあるインフラに携われる組織で、世の中、社会のために汗をかくような姿が自分のイメージに合っているような気がしていました。

当時のNASDAの会社案内(上村氏より提供)

 また、大学ではインフラ投資支援メソッドとしてのプロジェクト・ファイナンス、行動経済学、経済地理学(産業立地)のような領域も勉強していたので、なにか大きなプロジェクトでより多くの人の心を動かし、新しい経済活動を生み出すことに興味がありました。

 たとえば、トイレに行きたい人が、「トイレは右という矢印を書いたポスター」を見て、左に行く人はいませんし、たった15秒のCMで商品を買いたくなるように、広告には人のココロを動かし、実際の(購買)行動まで繋げられるチカラ、魔力がある。そうやって、人の心が動き、足も動き、動いた先で多くの人の経済活動が行われ、結果、街や地域が潤い、国や世界も発展していく。そんなことを生業(なりわい)とできる職業を探していました。

 ただ、大企業に入社しても、自分が単なる組織の歯車の1つになってしまいかねない。僕が入ることでその組織や業界を変えられるようなもっと大きなことをできるところ、可能性が高いところはどこか。そうなると、領域としては、手垢がついていない「宇宙」ぐらいしかないなと。

――新卒の時点でそこまでの考えを持っているのもすごいですね。

 100人、1000人の新卒を一度に採用するような会社だと、その中の1人として本当に歯車になってしまうかもしれない。なので、採用の少ない人数のところに入れば、若くても責任ある仕事を任せられるチャンスが増えると勝手に思ったんです。ただ、経済を学んできた文系の僕が、NASDAの中で活躍できるところがあるのか、という点が気になっていました。

 そんなときに、また唐突に当時のNASDAから連絡があり、現在の人事部長である岩本(元新事業促進部長の岩本裕之氏)と、同じ大学の法学部出身の先輩女性職員と薄暗い喫茶店でいろいろと面談する機会をいただきました。実は、岩本も別の大学の経済学部出身で、当時、日本初の商業衛星の打ち上げサービス会社「ロケットシステム」(現在は解散)に出向し国内外で営業しているだとか、宇宙事業による経済波及効果を調べていると。彼の話を聞いているうちに、経済屋でも活躍できるんじゃないかと次第に思い始めました。また、そういうことを通じて宇宙の魅力をもっと広く伝えられるかもしれないとも思いました。

 今も文系だとJAXAに入りにくいイメージがあるかもしれません。でも、文系としての仕事は確実にあります。国際的な活動が多いので、国際間の協定を結ぶときには法律の知識や語学も必要となり、また、今後、本格化する宇宙探査では国際間でルールやガイドラインもいろいろと決めていく必要もあります。2021年度から、JAXAは民間企業への出資もできることとなり、経済の知識を生かせる場面も少なくありません。

 岩本と出会ったことで、経済屋でも宇宙の分野で活躍できそうだというイメージがもてたんですよね。それで、内定をいただいていた航空会社には「空のもっと上(宇宙)が見たくなったので…」と言い訳してお断りしました……(笑)

――そんなセリフが言える人生ってなかなかないですよね(笑)

 それと、当時、ロケットや衛星などに関係する機器産業は官需ばかりで2000億円ほどの規模だったのですが、最終面接の役員の前で、それを「私は5倍の1兆円産業にします」と宣言もしてしまいました(笑)

 まず宇宙産業を大きくしていきたい、それは霞ヶ関という政策立案の場も考えましたが、僕は現場により近いところで働き、産業としての宇宙をもっと日本で根づかせ、ビジネスが生まれるような環境整備をすべきだと思いました。宇宙の領域ってゼロからイチを、無から有を生み出すようなところがありますよね。小さな可能性がビッグチャンスになるような。手垢のついていない宇宙という業界では、自分のできることがまだまだたくさんあるのではないかと就活中に思いました。

――大学以前の中学・高校生の頃から、「誰もやったことがないことをしたい」という性格だったのでしょうか。

 確かに二番煎じは嫌だな、という考えはあったかもしれないですね。ただ、それは一番になりたいということではなく、こんなことを自分がやったんだと誇れる実績があったらいいよね、という意味で。それが自分の存在意義だと思ったんです。

 薩摩人って新しいものを取り入れたがる気質があると言われているんですけど、その理由は、島津家の薩摩藩は江戸までの参勤交代ですごく長い距離を移動していたからだと思うんですよね。途中の多くの地方・地域(藩)を移動しながら、そこで見た新しい良いものを取り入れ、しかも南の島から舶来物が入ってきたりする。

 自分が生まれ育った土地のそういう歴史、気質もあって、自分も時代にうねりを起こしたい、生きていくなかで何か大きなことを成し遂げ残したい、宇宙で一旗揚げたい、みたいな気持ちが湧き上がってきているような気がします。

入社してすぐ、ロケットの打ち上げが失敗するも……

――上村さんがこれまでJAXAで手がけてきたことで、特に印象深かったプロジェクトはありますか。

 一番センセーショナルなのは、1999年。入社してから半年も経たないうちにロケットの打ち上げに失敗したことですね。すぐに事故対策本部のメンバーに入り、メモやコピー取りはもちろん、霞ヶ関・永田町との対応などに忙殺され、マイナスからの社会人生活のスタートでした(笑)。打上隊渉外班の仕事で種子島に赴き、打ち上げの様子を眺めていて、ロケットが見えなくなったところで日本のロケット史上初めて指令破壊を行ったので、そのタイミングでは失敗したことがわからなかったのですが。

 ただ、打ち上げシーンを生で見るのはやっぱり感動します。たくさんの人が携わり造り上げた結集で、数百トンという大きな構造物が打ち上がっていく姿を見て、実は涙が出たんですよね。そこで思ったんです、この感動は僕だけでなく、なんとしても他の人にも広く伝えなければいけないと。

 そこで当時は、YouTubeすらない時代でしたが、打ち上げのライブ中継を街中でパブリックビューイングをしようと勝手に考えました。でも予算も計画もないので周りを巻き込もうと。地元の企業経営者が集う鹿児島青年会議所(JC)や鹿児島県庁の方などいろいろな人を巻き込んで、まずはお膝元の鹿児島市内で、当時、NTTドコモさんの力も借りて、手元の携帯電話でロケット打ち上げ中継が見られるようにしました。

 そうやって入社まもない頃になにかしらカタチにできたのは大きかったですね。巻き込み型の仕事の仕方はそこで学んだように思います。アーリー・スモールサクセスの積み重ね、そして今で言う「共創」につながる取り組みは、僕の原点でもありますね。

――それは濃い1年目でしたね。他にも20年の間には印象的なことはいろいろとあったかと思いますが。

 そうですね、全国各地域・地方から宇宙に挑む動きが20年ぐらい前にもありましたが、僕は、当時、中小企業の優れた技術を宇宙開発に活かすため、全国の町工場や大学などを足しげく通っていました。

 当時、入社4年目ぐらいの文系な僕でしたが、現場でロケットや衛星を支える技術や部品について学んだり、世界に冠たる職人技にも触れられ、挙句の果てには、東大阪に小型衛星のAIT設備(※)を核とした初のJAXA拠点(2003~2018年度)の立ち上げも任せられました。設計図面の段階から、地元の行政、JAXA技術者の方と喧々諤々やり取りしていた頃が懐かしいです。

 でもその後、いくら優れた技術や部品でも、宇宙空間で不具合なく使えると証明される、実績がないと実際の宇宙機に採用されない壁にもぶち当たりました。そこで、岩本とともに、ロケットに少しでも隙間があるならば、大学や企業が作った小さい衛星を一緒に運び、宇宙空間での実績づくりの機会をできるだけ多く作ろうという相乗り施策も新たに立ち上げました。当時、賛否はありましたが、今ではライドシェアの考えは定着し、新たに宇宙に挑むプレーヤーも増え、とても嬉しいです。

(※)Assembly, Integration, and Testing (AIT) facility:組立、インテグレーション、試験設備

 隙間と言えば、ロケットの第1段と第2段のつなぎ目に空間があったので、コミュニケーション手段の活用のひとつとして広告などを入れてはどうか、と提案して、実際、地球観測衛星を積んだロケット壁面にエコマークを掲出して、初めて産業界と連携したキャンペーン企画も実現しました。これも賛否あったのですが、それ以降、毎号機にミッションロゴを貼るようになり、ロケットにどんな衛星が積んでいるか分かるようになりましたね。

H-IIAロケット段間部にミッションロゴなどでメッセージを込める取り組みを発案

 あとは、NASA技術を活用したテンピュール枕のように、JAXA技術をスピンオフし商品化するCOSMODEという取り組み(現在はJAXA LABELに継承)も新たに立ち上げ、研究開発での成果をマネタイズしていくところもやってきました。若い頃のこういうチャレンジを応援してくれた上長(その頃は、外部から招聘された商社マン)や同僚には、今でも本当に感謝しています。 

――JAXAのなかで本当にいろいろなチャレンジをされてきたのですね。ちなみに20年間のなかで上村さんにとってターニングポイントとなるような出来事はありましたか。

 実は、入社して10数年の間に3回、JAXAの外に出ているんです。文部科学省では、ISS計画の国際調整役を任せられ、英語が苦手でも、とにかく毎日昼夜関係なくNASA担当者にメールを送り続け、相手の信頼を得て、最後はNASA国際局長から表彰もいただきました。全国で宇宙教育活動を展開する(財)日本宇宙少年団では、黒字化を使命とした経営改革を断行しながらも、新規事業で財団収入の3分1の約1億円を獲得するなどとにかく修羅場でした。電通では、2000枚以上の名刺がなくなるほど様々な業界の人に出逢い、宇宙コンテンツのマネタイズなども実現してきました。

 その後、JAXAに戻り、民間企業出身の理事長2名の秘書を、約3年間させていただきました。本音は、その頃、海外赴任もしたかったのですが、結果として、秘書を通じて経営、組織全体を見渡るようになり、多くの役職員とも関係ができ、理事長の経営手腕もすごく勉強になりました。海外にも、平均2ヵ月に1回程度は出張していたので、視野が大きく広がったのは事実です。

 結局のところ、経営は人だなと。組織を変えるには、人、人づくりから変えないといけないと実感して、秘書の後は、自ら希望して人事部に異動しました。30歳半ばまでに3回(5年ぐらい)も外に出て、JAXAの良し悪しも見え、たくさんの意思決定機会を迫られる修羅場経験、人脈が僕の今の強み、支えになっています。

JAXA入社後の上村氏(左から新人配属・総務部の20代、筑波勤務の30代、現在40代の写真)

――その経験を生かしたJAXA内での取り組みはありますか?

 電通から戻ったときに、当時の理事長から「あなた独りでできることは分かったから、もっと仲間を作りなさい。」と言われ、コミュニケーション・デザイン・ユニット(CDU)を組成して、バーチャルな活動を社内有志30人ぐらいと始動しました。「JAXAは何者か?」という原点に立ち戻り、どういうブランディング、コミュニケーションをすべきかなど具体的に議論し、一部実行に移しました。その頃のメンバーは、私にとって、いま大切な財産となっています。

 また、人事部に異動してから、若手職員を民間企業に一定期間、越境することを推し進め、人材育成の観点で、三菱商事、日立製作所、ANA、トヨタ自動車などに派遣し、3年前から新事業促進部と人事部によって施策化し、宇宙・宇宙以外のスタートアップなどに越境させています。

 民間企業のやり方や考え方をJAXAにそのまま持ち帰ることは期待していません。外に出て初めて、自分のチカラ、限界も分かるし、JAXAの果たすべき役割も再認識できると思っています。国の予算による運営ではなく、提案して生み出した価値に報酬をいただく、1円を稼ぐことの難しさは、私も身に染みて体感しています。

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