特集

地球生命圏まで拡がる糸川英夫の「創造性組織工学」

2024.09.10 09:00

田中猪夫

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 日本の「ロケットの父」として知られる糸川英夫氏は、宇宙開発以外にも、脳波測定器やバイオリン製作など生涯にわたり多分野で活躍をしたイノベーターだった。この連載では、糸川氏が主宰した「組織工学研究会」において、10年以上にわたり同氏を間近で見てきた筆者が、イノベーションを生み出すための手法や組織づくりについて解説する。

「システムズエンジニアリング」の役割とは?

 アポロ計画は「システム工学」の成功事例として知られているが、実装技術は「システムズエンジニアリング」と呼ばれている。

 システム工学は、複雑なシステムを構成する要素と要素間の関係を分析し、最適な設計・開発方法を導き出すことに重点を置いている。一方、システムズエンジニアリングは複雑なシステム全体のライフサイクルを考慮し、要求定義から廃棄まで一貫したマネジメントを行うことに重点を置いている。私は、システム工学とシステムズエンジニアリングを別物として捉えた方が、価値創造につながりやすいと考えている。

 このことは本で考えるとわかりやすい。世界40カ国1000万部以上のベストセラーとなった近藤麻理恵さんの『人生がときめく片づけの魔法』(サンマーク出版)は、本の企画立案をした編集者と著者がいて、世界中の印刷工場が原稿を1000万部以上印刷した。つまり、「企画執筆=原稿の創造、生産=原稿の印刷」と表現できる。このように企画執筆と本の印刷は別物だ。さらに、Kindleになるとダウンロード=生産となり、価値を創造するのは企画執筆だけになる。

  • システム工学の役割:原稿の創造(価値創造重視)
  • システムズエンジニアリングの役割:原稿の創造から印刷・配本までのマネジメント(実装マネジメント重視)

(1)アーキテクト不在の日本

 日本はGAFAMが中心のデジタルビジネスで敗戦したと言われている。その理由の1つは、ほとんどのIT技術者が『人生がときめく片づけの魔法』の編集者と著者のように、世界中で売れるコンテンツをどう作るべきかという価値創造の仕事をしてこなかったことにある。顧客のはっきりしない要求を範囲を限定した要件に落とし込み、スケジュール通りに確実に実装することがIT技術者の目的だったとも言える。

 システムエンジニア(SE)はその中心的な役割を果たしてきた。もともとは、複雑なシステム全体のライフサイクルを考慮し、要求定義から廃棄まで一貫したマネジメントを行う技術者をシステムズエンジニアと呼んでいたが、日本では「ズ」が取れて、システムエンジニアと呼ぶようになり、どこかでIT技術者=SEになってしまった経緯がある。

 米国では複雑なシステムを構成する要素と要素間の関係を分析し、最適な設計や開発方法を導き出すIT技術者を「アーキテクト」と呼ぶ。たとえば、マイクロソフト時代のビル・ゲイツは、会長兼チーフ・ソフトウェア・アーキテクトとしてプロダクトの企画設計に携わっていた。日本にはこのソフトウェア・アーキテクトがいないため、何をどう作ったら売れるかという企画設計の役割をする人がどこにもいない。つまり、欧米のソフトウェア・アーキテクトの企画設計したプロダクトをキャッチアップし、実装するIT技術者だけが存在するのが日本の現状だ。

(2)ISO/IEC/IEEE 15288・BABOKとの組み合わせ

 かつてシステムズエンジニアリングのバイブルと呼ばれていた米国国防省のMIL-STD-499Aは、実装マネジメントのベストプラクティスだ。そこから派生したISO/IEC/IEEE 15288も同じ位置づけになる。IT業界のビジネスアナリシス標準知識体系のBABOK(Business Analysis Body of Knowledge)も実装マネジメントのベストプラクティスと位置づけてもいいだろう。

 糸川英夫さんの創造性組織工学(Creative Organized Technology)は、複雑なシステムを構成する要素と要素間の関係を分析し、最適な設計・開発方法を導き出す企画設計に関わる糸川流システム工学という位置づけになる。『人生がときめく片づけの魔法』の原稿の創造をするのが創造性組織工学だ。しかしこれは、印刷配本までのマネジメントと競合しないという特徴がある。つまり、次のように位置づけることが可能だ。

  • 創造性組織工学:価値創造
  • ISO/IEC15288・BABOK:実装マネジメント

 つまり、価値創造を行う企画開発に創造性組織工学を使い、各種実装マネジメントと組み合わせて使うことが可能なのだ。

(3)商品弾性率でインサイトを探る

 文部科学省が実施する全国イノベーション調査2022年調査統計報告「NISTEP REPORT No. 200」がイノベーションの対象としているのは、「プロダクトイノベーション」と「ビジネスプロセスイノベーション」などだ。創造性組織工学はその両方を対象にするが、プロダクトイノベーションについてはフィンランドの経済学者トルンクビスト(Törnqvist)の「商品弾性率」という考え方によって、インサイト(マスクドニード)を探る方法がある。商品弾性率とは、所得の増加率(dm/m m:現在の所得、dm:所得の伸び)と購買欲求率(dq/q q:現在持っている数、dq:購買しようとする数)の比で表される。

 たとえば、20万円の給与が22万円になったとすると所得増加率は2/20で0.1(10%)だ。この人は給与が20万円のときTシャツを5枚持っていたが、給与が増えたので1枚買ったとする。このときの購買欲求率は1/5で0.2(20%)だ。このケースのTシャツの商品弾性率は0.2(購買欲求率)/0.1(所得増加率)で「2」となる。なぜ、増加額と増加率を問題にするかというと、Tシャツを20枚持っている人が1枚買い足すのと、5枚持っている人が1枚買い足すのでは増えた喜びが違うからだ。給与にしても、20万円の人が2万円アップするのと、50万円の人が2万円アップするのでも増えた喜びがまったく違う。つまり、絶対量ではなく「比」(商品弾性率)が購買動機の重要指数となるのである。

(出典:日経BP書籍「国産ロケットの父 糸川英夫のイノベーション」より)

 この図はプロダクトを商品弾性率で5つに分類したものだ。

  • 第1商品群:生活必需品(食⇒衣⇒住)
  • 第2商品群:代用品(バターの代用品マーガリンなど)
  • 第3商品群:比較的ぜいたく品(自動車、バイク、TVなど)
  • 第4商品群:純ぜいたく品(ゲーム、音楽などの持続性のない無限界商品)
  • 第5商品群:情緒安定化商品(あるいは産業)

 商品弾性率で最近のプロダクトを分類すると、スマホは当初第3商品群だったが、技術革新を経て第1商品群となったと言えるだろう。所得水準が違うため、BOP(Base of Pyramid)⇒新興国⇒先進国と商品群ごとに商品弾性率が異なる。つまり、国家単位であれ個人単位であれ、所得が変化したときに、どれだけ敏感にプロダクトを買いたいという欲求が変化するかを表す指標が商品弾性率なのだ。

(4)地球生命圏に拡張される商品群

 第1商品群から第5商品群のインサイトの対象とする顧客は「人」だが、今後はインサイトの対象を地球生命圏にも拡張すべきだと糸川さんは言う。『復活の超発想』(徳間書店)によると、現在のインサイトとして、人間が共存しなければならない地球上のすべての生命とのあいだのセンサー機能を挙げている。

 地球は生物と環境の双方が長い長い生命の歴史を通じて共生関係を続け、セルフオーガニゼーション(自己調節作用)によって維持されるような方向をたどってきた。異常気象が人間社会が生み出した結果であるとしたら、それを正確に観測し、リスクマネジメントを行う必要性はますます高くなる。異常気象が地球のもつホメオスタシス(恒常性)であるならば、地球生命圏の生物を主軸にした宇宙規模のコミュニケーションシステムの開発という巨大なインサイトが眠っていると糸川さんは断言する。

 生物と人間とのコミュニケーションをさらに地球のホメオスタシスに関連する微生物にまで拡張し、雲の生成に関与するエアロゾル(藻からのDMSなど)の計測や、CO2の吸収や海洋微細藻類の生育を促す海洋深層水循環システムの開発など、地球を構成する地球生命圏を計測し制御するコミュニケーションシステムのインサイトを、『復活の超発想』(徳間書店)では次のように予測している。

 「ワシントンは宇宙のフロンティア開拓に人類の未来を託そうとしているが、何度も言うとおりこの宇宙は、そんなに容易に人間の居住地になれるところではない。早晩、アメリカのフロンティアは、もっと他の面に向いていくよりない。当面は、宇宙空間での新技術開発だろう。私は、欧米も日本も、これからは共存・共生のレベルを、国家や民族からもっと広げ、広く地球生命圏との共生にまで拡大していかなければ、将来の画期的な技術のイノベーションもなく、南の諸国や北の諸国からの未来への納得も得にくくなるだろうと考える」

 宇宙科学は宇宙科学で、地球物理学は地球物理学で、海洋科学は海洋科学で、生物学は生物学でとそれぞれの専門分野で勝手に地球を診断していたのでは地球の環境は改善しない。つまらないセクト主義を捨て、あらゆる科学が協力しあって地球の生理を総合的に診断していく時代に入ったのである。

 以前に、創造性組織工学を多様な人材を束ねる「焼き鳥の串」(「焼き鳥の串」がイノベーションを生み出す–ロケット開発から生まれた糸川英夫の「成功するチーム作り」)と表現したが、その役割はホリステックに地球生命圏に向き合うことだと、日本の宇宙開発・ロケット開発の父である糸川さんは言う。

 日本の科学技術に欠落しているのは、地球生命圏とのコミュニケーションシステムの例で示したような超上流の価値創造なのだ。つまり、宇宙開発と国連の掲げた地球規模の5つの問題(人間の安全保障、人道支援、保健・医療、地球環境・気候変動、防災)を結びつけること(組み合わせ)にも焼き鳥の串が必要になったということだ。

 次回は、「オルタナティブを発見するチャート」についてまとめてみたい。

田中猪夫

岐阜県生まれ。糸川英夫博士の主催する「組織工学研究会」が閉鎖されるまでの10年間を支えた事務局員。Creative Organized Technologyを専門とするシステム工学屋。

大学をドロップ・アウトし、20代には、当時トップシェアのパソコンデータベースによるIT企業を起業。 30代には、イスラエル・テクノロジーのマーケット・エントリーに尽力。日本のVC初のイスラエル投資を成功させる。 40代には、当時世界トップクラスのデジタルマーケティングツールベンダーのカントリーマネジャーを10年続ける。50代からはグローバルビジネスにおけるリスクマネジメント業界に転身。60代の現在は、Creative Organized Technology LLCのGeneral Manager。

ほぼ10年ごとに、まったく異質な仕事にたずさわることで、ビジネスにおけるCreative Organized Technologyの実践フィールドを拡張し続けている。「Creative Organized Technology研究会」を主催・運営。主な著書『仕事を減らす』(サンマーク出版)『国産ロケットの父 糸川英夫のイノベーション』(日経BP)『あたらしい死海のほとり』(KDP)、問い合わせはこちらまで。

田中猪夫

岐阜県生まれ。糸川英夫博士の主催する「組織工学研究会」が閉鎖されるまでの10年間を支えた事務局員。Creative Organized Technologyを専門とするシステム工学屋。

大学をドロップ・アウトし、20代には、当時トップシェアのパソコンデータベースによるIT企業を起業。 30代には、イスラエル・テクノロジーのマーケット・エントリーに尽力。日本のVC初のイスラエル投資を成功させる。 40代には、当時世界トップクラスのデジタルマーケティングツールベンダーのカントリーマネジャーを10年続ける。50代からはグローバルビジネスにおけるリスクマネジメント業界に転身。60代の現在は、Creative Organized Technology LLCのGeneral Manager。

ほぼ10年ごとに、まったく異質な仕事にたずさわることで、ビジネスにおけるCreative Organized Technologyの実践フィールドを拡張し続けている。「Creative Organized Technology研究会」を主催・運営。主な著書『仕事を減らす』(サンマーク出版)『国産ロケットの父 糸川英夫のイノベーション』(日経BP)『あたらしい死海のほとり』(KDP)、問い合わせはこちらまで。

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