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若田宇宙飛行士の船内活動を支えたワコールの「アストロソックス」–靴下がボロボロ、ニオイが気になる課題を解決

2023.07.04 09:00

藤井 涼(編集部)石田仁志

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 2023年3月に、国際宇宙ステーション(ISS)での長期滞在任務を終えた若田光一宇宙飛行士が無事地球に帰還した。今回のISS滞在は約5カ月間にわたり、日本人宇宙飛行士として最長を記録したが、同氏の宇宙での暮らしや活動の一端を支えたのが、女性用インナーウェアを中心にナイトウェアやスポーツウェアなどを開発するワコールだ。

 その際に若田宇宙飛行士を支えていたのは下着ではなく「靴下」。同社は国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構(JAXA)が主催する、宇宙生活の課題から宇宙と地上双方の暮らしをより良くするためのビジネス共創プラットフォーム「THINK SPACE LIFE」(以下TSL)に参画しており、活動の一環としてISS船内活動用の靴下「宇宙靴下 アストロソックス」や、一般消費者向けの歩くを、ととのえる靴「ichi-ho(イチホ)」を開発・販売している。

「アストロソックス」の開発に携わったワコール 人間科学研究開発センター 開発支援課 課長の松井孝明氏(右)と、同課 主幹研究員の相田栄氏(左)

 ワコール 人間科学研究開発センター 開発支援課 課長の松井孝明氏に、これまでの宇宙へ取り組みやTSLでの活動について聞いた。

「重力」の研究からJAXAとつながり宇宙産業へ

――ワコールが宇宙領域のビジネスに取り組むようになった経緯を聞かせてください。

 ワコールでは、「世の女性に美しくなってもらうことによって広く社会に寄与する」という創業精神のもと、1964年に人間科学研究開発センターを設立し、毎年1000人近くの身体計測によってからだの実態を調べながら、その時代に求められる美しさをその都度指標として提案してきました。

 たとえば、1995年には美しいからだのバランスの基準として「ゴールデンカノン」を、2000年には女性の体形における加齢変化の実態を捉えた「スパイラルエイジング」などをそれぞれ発表しています。

女性の美の研究「ゴールデンカノン」(トルソ・バランス)

 2010年からは、それまでの「かたち・加齢」に「動き」の要素を加えた研究を開始しました。その要素として、からだの健康を維持するためには重力とうまくつきあうことが大切だろうということで、われわれはJAXAとの取り組みを開始する前から重力に関する研究を行っていました。その過程で、飛行機の上昇・下降の際に生じる「パラボリックフライト」という微小重力状態において、女性のバストはどう変化するのかを研究し、「重力に負けないバストケア Bra」という商品も開発しています。

「重力に負けないバストケア Bra」

 そのような経緯から、当社では様々な研究によって美を追求してきた中で、重力に向かっていったという流れがあるのです。それらの研究データによって、微小重力状態では若いころのバストに近い形状状態になることも分かってきています。そこから重力の影響を受けにくい構造のブラジャーを作ろうとして、結果的に宇宙領域とつながった感じです。

――突然、宇宙ビジネスに参入したのではなく、もともと重力に課題感を持っていたのですね。では、どのような理由でTSLに参加するようになったのでしょう。

 TSLが立ち上がる前に、実はパラボリックフライトの絡みでJAXAとも繋がりがありました。当時ワコールでは、大学、企業、専門家に声をかけて、「からだ文化研究」という美についての共創研究プロジェクトを進めており、JAXAとも接点があったのです。その時にTSLの構想を紹介され、親和性が高いので一緒にやらないかとお声がけいただき、インキュベーションパートナーとして協業させていただくことになりました。

 そこでまず、TSLが開催した「宇宙と美と健康を考える」という、日用雑貨を考えるワークショップの運営を外部企業と一緒に担当しました。そのワークショップから多くのアイデアが生まれ、それが後にJAXAが公募したISSに搭乗する日本人宇宙飛行士向けの生活用品アイデアに繋がっていったのですが、そこに私たちも1企業として応募する形となったのです。ワコールは4種類のアイデアを応募して、最終的に宇宙靴下が採用されました。

――ちなみに靴下以外にはどのようなものを応募したのですか?

 私たちが地上で手がけている商品の中では、靴下のほかに血流を変えるタイツを応用したもの、あとは未来志向を取り入れた眠りに関わるものや、バーチャルリアリティを使ったものを提案しました。ワコールのビジネスに直接関わるものが靴下を入れて2点、宇宙であったらいいなという発想のものが2点でしたね。

船内活動向けに開発した「宇宙靴下 アストロソックス」

――生活用品アイデアの公募で採用された靴下について教えてください。

 正式名称は、「宇宙靴下 アストロソックス」になります。開発に当たっては、宇宙飛行士の課題に向き合い、要望に寄り添い、研究の視点からも観察して商品に実装していきました。JAXAが公開している「Space Life Story Book(スペースライフ ストーリーブック)」に、宇宙飛行士の困りごとが記されているのですが、その中に、「手すりに足を引っかけて身体を固定するのが大変」「靴下がボロボロになりやすい」「洗濯できないのでニオイが気になる」といった足回りの悩みが掲載されていました。ISS内で身体や機材を固定するためのベルクロが靴下に引っかかり、動きを固定するためのバーや紐を足で掴むため、靴下が痛んでしまうそうなのです。

 そこで当社では、「ISS船内での作業の快適性の向上となる靴下」を開発することにしました。身体の固定が楽になれば足のコントロールへの意識が減り、身体も揺れないことで手の作業への集中度が増し、毎日の任務・生活の質や効率が上がり、靴下がボロボロになりにくく、ニオイも気にならなくなれば、気持ちよく任務に向かうことができるのではないかと考えました。

「宇宙靴下 アストロソックス」

 靴下を製造するコーマの協力のもと、足による身体の固定を楽にしつつ、靴下がボロボロにならないように、生地が接する場所にシリコンプリントを配置しました。また、足首をサポートするための編み上げ構造とし、抗菌・消臭の機能をもった糸を使い、クッション性のあるパイル生地を採用するなどしてアストロソックスを開発しました。

 色も、着用して下さる若田さんにおしゃれを楽しんでもらえるように、売れ筋の黒とグレー、さらに侍ブルーと日の丸レッドの4色を用意しました。その中から若田さんには、「日本(国旗)のカラーであること、滞在期間中にクリスマスを過ごすこと」などの理由で赤を選んでいただき、実際に履いている写真が公開されました。

ISSでアストロソックスを履く若田光一宇宙飛行士(画像提供:JAXA/NASA)

――製品の開発期間はどれくらいでしたか。もともとワコール社内にあった技術をある応用できたのか、それとも新規で作ることになったのでしょうか?

 2021年10月下旬に採用となり、4カ月ほどで開発しました。基本的には、ほぼ既存技術の組み合わせで開発しましたが、ワコールには靴下を作れる機能はなかったので、靴下を作ってくれる工場と相談しながら作ることになり、構造や位置合わせ、幅などについてかなり工夫が必要でした。

 また商品を作るときは、特殊な材料を集めて縫う場合、依頼をかけてから小ロットで作る形になります。1ヵ月に1〜2回試作品が上がってくればいいという中で、人に着用してもらいながら確認し、修正する作業を何度も繰り返さなければなりません。それを実際の工場ラインを使って行うのは大変でしたね。

――(写真に写っている)アストロソックスを履いている若田さんの嬉しそうな表情が印象的ですね。

 直接使用感についてお話を伺ったわけではないのですが、改善すべき点はあると思っています。アストロソックスに関しては、商品化するところまでは進んでいませんが、普通のアパレル会社が作った服を宇宙に持っていくことがアリだということを実証できたと自負しています。

ISS内で宙に浮かぶ「アストロソックス」

 これは、以前ある宇宙飛行士さんに伺ったのですが、宇宙に行くとむくんで足から細くなるそうなんです。完成品の特徴についてはウェブサイトには掲載していますが、それを踏まえて今回開発した製品に関する実際の善し悪しについて、より細かく情報を付け加えて紹介できれば、宇宙領域にさまざまなメーカーが進出する際の参考資料になるのではないかと思っています。

 Space Life Story Bookを読んだり、宇宙飛行士の話を聞いたりすると、ものすごく発見があります。今まで人類は宇宙から生きて帰ってくることを目的にしてきましたが、今後快適性が必要になると、人間工学的な設計思想が入ってきます。実際に宇宙に行った素材で作っている糸などもありますし、それらの情報を開示すれば宇宙空間における改善点としてだけでなく、人の特徴として読める可能性があります。そのような様々な知見を可能な限り伝えていくことも、今回プログラムにおけるひとつのミッションだと思っています。

TSLのアクセラレータプログラムで「地上で使える靴」を商品化

――商品化という意味では、地上向けの靴を開発していますね。

 ワコールがもともと持っている特許技術も活用し、重力と足の使い方に着目した“歩く、を整える”靴「ichi-ho(イチホ)」をTSLプログラムの一環として大裕商事と開発し、2023年3月に発売しました。

 地面での接地面がゆがむと、頭のトップにいくにつれてどんどん角度がぶれていきます。イチホは、2本のバンドの伸縮作用で足とからだの左右のブレを軽減し、歩行をサポートすることで快活感のある明るい印象の歩き方ができるようなつくりになっています。

“歩くを整える”靴「ichi-ho(イチホ)」

 TSLで開発した2つの製品ですが、アストロソックスが宇宙空間の微小重力環境向けの製品で、イチホは1G環境の地上向け製品という位置付けになります。

――アストロソックスは地上展開していないものの、この第一弾があったからこそ第二弾の「ichi-ho」の開発に繋がっているということですね。今後、一般の旅行者も宇宙に行く機会が増えていくと、ワコールが強みとするインナーの最適化も求められますね。

 そこは様々なメーカーも考えているはずですし、どんどんみんなで開発していくべきだと思います。ワコールとしては引き続き、地球・宇宙と限定的になるのではなく、ひとりひとりが、自分らしく美しくいられるように、世の中が自信と思いやりにあふれるように、こころとからだに、いちばん近いところで、寄り添い続けていく予定です。

 また靴もそうですが、宇宙空間で得たアイデアを違うものに応用して新たな製品開発をしています。ただ、アストロソックスもそうですが、それを自社で行うべきか、考え方を外に提供して作ってもらうべきかは検討中です。いずれにせよ、ちょっとしたヒントがあればそれだけでメーカーは製品を開発できるので、今後の宇宙産業における生活周りの品々、アパレルを中心とした製品開発には前向きに挑戦していきたいですね。

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