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微小重力下で紛失を防ぐ、久光製薬の粘着シート「Fixpace」–宇宙での驚くべき実用方法とは
微小重力下にある国際宇宙ステーション(ISS)では、物を一定の箇所に置いたままにしておけないため「物を紛失しやすい」という日常的な困りごとがある。そこに久光製薬が提案したのが、両面粘着シートの「Fixpace®(フィクスペース)」だ。JAXAが推進する「宇宙生活/地上生活に共通する課題を解決する生活用品アイデア募集」で2020年に選定され、2022年ISSに搭載された。
サロンパスやフェイタスなどの外用鎮痛消炎剤で知られる同社が、なぜ宇宙向けに粘着シートを開発したのか。その背景や開発における課題と苦労、今後の宇宙領域に向けた取り組みについて、開発に携わった担当者3名に話を伺った。
宇宙で貴重な「水」を使わずに目的を達成できる技術で貢献
ーーなぜ宇宙領域の製品開発に取り組むことになったのか、その背景からお聞かせいただければ。
鈴木氏:「ビジネス共創プラットフォーム『THINK SPACE LIFE』共創ワークショップ『宇宙から考える健康・美しさ・快適さ』」へ参加したことが最初のきっかけでした。
その参加に際して宇宙生活での困りごとを調べる中で、宇宙は水が貴重で、使用が厳しく制限されていることを知りました。例えば薬について言うと、錠剤やカプセル剤などの飲み薬の場合は水がないと服用しにくいですし、かといって注射薬だと自分で投与するのが難しい。それに対して我々が開発している貼り薬や塗り薬は、水がなくても服用でき、容易に使えるという利点があります。
こうした観点から、我々が持つノウハウを宇宙空間でも活かせるのではと考えました。昨今のSDGsのことを考えても、水は日々の暮らしで貴重なものとなっている国がありますし、宇宙における困りごと(物資も限られる過酷な環境)を解決することが、発展途上国や被災時での課題解決につながる可能性もあると思われます。
また、生み出した技術が地球を越え、宇宙で活用されることによって研究員のモチベーションにつながるだろうと思ったのも、宇宙領域に取り組むことにした理由です。
ーー「Fixpace®」という物を固定する両面粘着シートのアイデアに至った経緯を教えてください。
福島氏:JAXAさんの「事業アイデア共創ワークショップ」に参加し、宇宙飛行士のISS内での困りごとがいくつか挙がったなかで、微小重力のために物がふわふわ浮いて紛失してしまう、という課題がありました。これまでは面ファスナーを利用していたようですが、それだと壁側と固定したい物の両方に貼らなければならず、小物だと使えない問題もありました。
そこで、両面に粘着剤が付加されたシートであれば、壁に貼ったところに直接いろいろな物をそのままくっつけて固定できるので、物の紛失を防げるのではないかと考えました。若田宇宙飛行士と直接ミーティングさせていただく機会もあり、ボールペンやナイフ、フォークなどはよく使ううえ、置きたくなることも多いということで、その解決になるものを開発することに決めました。
ーー開発時にあたってはどんな苦労がありましたか。
田中氏:開発期間が短かったことですね。話を頂いた時には残り約6カ月しかありませんでした。当社の商品は年単位の時間をかけて開発するものですし、最初の時点で決まっていたことも「微小重力空間で物を固定するシート」というコンセプトだけで、どういった場所に貼るのか、あるいは具体的にどういう使い方をするのかも未知でしたので、不安に感じていたのを覚えています。
そういう手探り状態のまま、最初は粘着剤部分の設計に取り組みました。微小重力空間は貼り付ける物の重さを考えなくていいのですが、実際にどれくらいの粘着力が必要かはわかりません。シートを壁に貼り、そこに物をくっつけて、その後もう一度物を取ったときにシートも一緒に壁からはがれてしまうような弱さだと困ります。宇宙空間で必要になりそうな粘着力を想像しながら、当社の製品のなかで比較的粘着力の強いものを参考に設計を行いました。
福島氏:無重力がどういう状況になるのかは我々は想像しかできなかったので、粘着力をどこまで強く・弱くすればいいのかは試行錯誤しましたね。そもそもTHINK SPACE LIFEは、「宇宙生活/地上生活に共通する課題を解決する生活用品アイデア」ですから、地上でも使えるくらいの粘着力が必要です。それもあって粘着力の設計は難しかったですね。
ーー使用できる素材や成分にも制約があったのではないかと思います。
田中氏:そうですね。宇宙に持って行くということで、たとえば通常の製品によく使われているアルコール類など揮発性・可燃性の成分は入れられません。それを除いた状態で、粘着剤としての機能を果たせるものを作るのに時間がかかりました。アルコール類がないことで製造方法が限定されますし、製造方法が限定されると、そこに配合できる成分も限られることになりますので。
表と裏で粘着力を変更、それでいて剥離紙ははがれやすいように
ーー地上の貼り薬などとはどのような点が異なっているのでしょう。
福島氏:まず、ペンなどをくっつける表側は繰り返し使えること。あと、先ほどお話しした通り両面とも粘着するシートにして、表と裏で粘着力を変えている、というのが大きな違いかと思います。地上にある通常の両面テープや単層構造の粘着シートは両面とも同じ粘着力で、それをそのまま使うと、くっつけたものを取り外すときにシートも一緒に壁から剥がれてしまうことがあります。今回は中間に生地を入れて複層構造にすることで、表と裏で異なる粘着力をもつようにしています。
ーー表と裏で粘着力はどれくらいの差をつけているのでしょうか。
田中氏:物性で言えば裏側は表側の約2倍の粘着力を有していることになります。表面処理は変えず、使用する成分、分量を調整することにより粘着力に差をつけています。シートを貼る壁やテーブルの素材としてはステンレスやプラスチックを想定して裏側の粘着剤を設計し、物をくっつける表側の粘着力を落としました。表側の粘着剤の再付着性は良好で、少なくとも100回以上は物が再付着することを確認しています。開発段階では素材や成分、厚み、製造条件などを変えて、合計で30種類くらい試作しました。
福島氏:実際に使うときのことを考えると、使い始めるときはまず壁側に貼らなければいけません。つまり、強い粘着剤側の剥離シートを最初にはがさないとならないわけです。そのため、壁からははがれにくいけれど、剥離シートははがれやすい、というものにしなければいけない。そうすると剥離シートの作りも変えなければいけない、ということになって大変でした。
ーーこのサイズ・形にした理由を教えていただければ。
田中氏:大きさや形は、開発側として、当社の貼付剤をイメージしていただけるように、という思いから決めました。JAXAさんでのフィットチェックでも、このサイズで問題ないと認めてもらえています。
福島氏:実は湿布などの外用鎮痛消炎剤の多くは、7×10cm、10×14cm、もしくは14×20cmという3パターンの大きさが規格として決まっているんです。ISSに持って行ける荷物の大きさにもある程度制限がありますので、その許容されるなかでどれがいいか考えたときに、当社としてはなじみのある形で作りたいと。今回は10×14cmのサイズとしましたが、大きすぎるときはハサミでカットして使うこともできます。
若田飛行士の「想定外の使い方」でもしっかり機能
ーーISSで実際に使用した若田さんからフィードバックはありましたか。
福島氏:「JAXA デジタルアーカイブス」というWebサイトに掲載されている「Fixspace」を紹介する動画で実際に使っている様子を見ることができました。ペンやハサミをくっつけているのを確認できましたし、ISS内でクリスマスパーティをするとき、簡単なケーキを作るのにも便利だったという話もされていて、そういう使い方もできるんだ、という感慨がありましたね。
鈴木氏:我々が当初想定していたのは、ペンなどの腹部分をくっつけて固定する使い方だったのですが、その若田さんの動画を見ると、ハサミやペンの先をくっつけていて、ちょっとびっくりしました(笑)。宇宙だとそういう使い方でしっかり機能してくれるんだ、ということがわかって安心しました。
ーー「Fixpace®」の開発を通じて得た新たな気付きなどはありましたか。
田中氏:「Fixpace®」には、シートの両側に(粘着剤のない)耳をつけるというユーザビリティ上の工夫を加えています。剥離シートをはがしやすく、壁などに貼り付けて使用した後で取り除くときも楽になります。JAXAさんのフィットチェックでは、壁に貼り付けた後に耳部分が浮いたりして使いにくくならないか、といったご意見もありましたが、それが起こりにくい素材を選んでいます。こういった工夫は今までの医薬品開発ではなかった視点で、今後の製品開発にも活かせるように思います。
それと、これまで当社では両面粘着の製品がなかったこともあり、生地の両面に対して、しわができたりしないように、いかに均一に粘着剤を貼り合わせるか、といった絶妙な製造条件の検討も行いました。そういった製造技術についても、今後の医薬品開発で役に立つ部分だと思っています。
次回作として「臭いとりパッチ」の提供を目指す
ーー「Fixpace®」の地上での販売や、次の宇宙領域に向けた取り組みは考えてらっしゃいますか。
鈴木氏:今のところ地上での販売は検討中ですが、JAXAさんの展示施設などに置かせていただいて、多くの皆さんにFixpace®を目にしていただく機会を増やし、それを通じて、地上でのニーズ探索をしていきます。それによって応用に向けたアイデア発掘もできるだろうと期待しています。
壁に物をくっつけたくなるシチュエーションは、宇宙空間に限ったことではありません。地上でも、たとえばキッチンの壁に調理用の小物をくっつけたり、クルマのなかで物を固定したりなど、アイデアベースでは社内でいろいろと挙がってきているところです。
次の宇宙領域への取り組みとしては、JAXAさんが新たに募集した第2回目の「宇宙生活/地上生活に共通する課題を解決する生活用品アイデア募集」に、すでに「臭いとりパッチ」で応募しています。ISSではゴミが捨てられなかったり、トイレも汚れていたりしていて、臭いの問題も大きな困りごとになっています。それを解決するアイデアです。
一般的な消臭剤だと場所を取りますので、「Fixpace®」で開発した貼付剤の技術も使い、臭いのする場所の近くに簡単に貼り付けることで消臭効果を発揮する小型のパッチの形で提供することを考えています。
ーー最後に今後の展望についてお聞かせください。
鈴木氏:「Fixpace®」で宇宙への足がかりを得られましたので、これを機に、当社の強みであるTDDS(Transdermal Drug Delivery System)と呼ぶ技術・製品を宇宙に広げていくという目標に向けて挑戦していきたいですね。2024年には佐賀県鳥栖市に新研究所が完成する予定ですので、それと合わせて、こうした新たな取り組みが研究員のモチベーション向上につながることも期待しています。
福島氏:我々は普段、どうしても医薬品のことばかり考えてしまいがちです。しかし今回の宇宙のように、いつもとは違う視点で見たときに新しい商品アイデアを思いつき、反対にそれを既存業務に落とし込んで改善・進化させていけるようになったりもします。宇宙は新たな視点の1つですが、それに限らず、いろいろな分野の課題に触れて、既存事業に相乗効果をもたらすような取り組みを続けていきたいですね。
田中氏:当社は医薬品を製造する企業ですので、やはり医薬品の開発に軸足を置きつつも、地球を飛び越えて宇宙でも人々のQOLを向上させられるよう、いろいろな方法で貢献していきたいと思っています。医薬品の開発には10年単位の月日がかかります。宇宙で起こりうる疾病を早くから知って、今のうちからアイデアを出して開発を始めれば、長期間の宇宙旅行をする民間人が多くなってきたときに力になれるはずだと信じています。